串打ちの仕事をしていて、切れ味の悪い包丁を腕でカバーしようとして、右手の手首が痛くなりました。ここ一年くらい痛いことはほぼ起こらなかったので油断していました。今の私なら多少のことは大丈夫というおごりもありました。
次の日とその次の日は仕事がお休みだったので、その間になんとかしようと思ったのですが、あいにく病院もお休みでした。ネット検索から得た情報は、「冷やして動かすな」ということでした。五十肩ににているなと思いながら過ごした2日間。その次の日に整形外科に行きました。
整形外科の先生からは「問題ない、動かせ」という指示でした。腫れたような痛みはおさまっていたのですが、こわばりと動かすと生じる痛みに恐る恐るな私です。五十肩のときにかかった先生には注射を勧められましたが、今回の先生は考え方が違っていて痛みを抑える飲み薬を処方されました。
生じる痛みは右手で特定の動きをしたときにだけ起こるのですが、薬が私に合っていたのか仕事をするときに困ったことは起こりませんでした。いつ薬の効き目が終わったのかわからないくらいだったので、痛むこともほとんどなくなってきたんだなと思えたのが1週間後。
その後も仕事のときは薬を飲むけど、日常生活にも影響はないし、右手を握っても痛くなくなったのが2週間後。治ったと言えるところまで来たのでブログに書いたわけです。
その間に私がやったことはいくつかあります。
1つ目、手首のサポーターを買いました。けれど、これが手に入ったときには痛みのほとんどは消えていたので使うことなく、効果の確認はできませんでした。
2つ目、包丁を研ぎました。原因の一つがそこにあるからです。今まで研いでも研げる気がしなくて途中でやめていたのですが、そんなこといっている場合ではありません。「手を犠牲にするくらいなら包丁を研ぐ」くらいの気持ちでいないともうだめです。
3つ目、串打ちの仕事で、「右手を使わない」と考えました。しかし、実際には仕事の作業では右手を使います。使いながら「右手を使わない」と考えたのです。これは、doingしながら「余計なことは何もしない(non-doing)」であることを狙ったものでした。最初は(まだ薬も処方されていなかったこともあり)それでも痛くて仕事になりませんでした。その後、薬を処方され、包丁も研いだことで、仕事になるようになりました。
4つ目、家でも「右手を使わない」を実行しました。これは、本当に右手を使わないことです。ご飯を食べるときにお箸を左手で使ってみました。意外といける、左手で食べることができました。朝起き上がるときも右手を使わない起き方を目指しました。これは腱鞘炎になる前から、手を使わないで「背中で起き上がる」を試みていたので、それが役にたちました。実際には背中だけで起き上がることはできなくて、手を使わないようにしながら腕を使いました。
そんな過ごし方は最初の1週間だけでした。今回は包丁を持つ右手の使い方を悪くしてしまったがために起こった炎症です。「そのときだけ変な使い方をしてしまった」ことによって起こると言えるためには、それ以前には変な使い方をしていない必要があります。それ以降も変な使い方をしないことが前提です。その結果何がおこるかと言うと、炎症はおさまり、痛みもなくなり、通常の右手に戻っていきます。
ほとんどの人も同じ言い方をします。「そのときだけ変な使い方をしてしまった」ことにより、右手が痛くなったと言います。しかし、その痛みが治らないでずっといつまでも続いているということがよく起こります。それはなぜかというと、そのときだけ変な使い方をしてしまったのではなく、その人の使い方が常にその使い方だったということです。それでも日常生活では身体を痛めるほどのものではなかっただけです。それが、たまたまそのときだけ強く出てしまったために痛みを生じてしまった。しかし、右手の使い方が変わったわけではないので、痛みはそのまま続くのです。
上の説明は、アレクサンダー・テクニークの視点による一つの可能性です。