学校のレッスン室には全身が映る鏡が置いてあります。けれども、普段レッスンのときに鏡を使うことはめったにありません。椅子を使うチェアワークのときは、眼の前に鏡があると「強い刺激となるから」と言って、あえて鏡の横を向いたり、鏡に背を向けたりします。かと思うと、他のレッスン生と向い合せに座ったりします(他のレッスン生の刺激はいいのか)。そんな感じなので、学校にいるときは、動きの確認をするのにちょっと覗いたり、髪の毛をチェックするのに鏡に近づく程度です。
先日学校のトレーニーの一人から、「鏡とはどう付き合えばいいのか」という質問を受けました。そうです。部屋の真ん中にドドンと置いてある割にはあまり活躍していないかもしれません。歌うときには印刷した歌詞カードを裏に張ったこともあるくらい。
まず、鏡を見て何がわかるのでしょうか。鏡に映る自分を見て何が起こっているのかがわかるということは、眼の前のレッスン生を見て何が起こっているのかがわかるのと同じことです。最初のうちは見ていてもあまり良くわかりません。そのうち自分の身体に起こっていることがわかってくると、眼の前のレッスン生を見てもわかるようになってきます。そうすると、鏡の中の自分を見てもわかるようになるのかもしれません。
反対に、自分に起こっていることがわからないけれども、鏡を見て何か気がつくことがあったとします。それを自分に取り込むことは、先生からのアドバイスや提案を自分に取り込むことと同じです。感覚的評価が当てにならないために、頭で理解したことを自分の身体で実現することはほぼ不可能です。自分の感覚的評価が相対的に良くなっていくのを待つしかありません。そうして、自分の身体で理解できてやっと本当にわかったことになります。
F.M.アレクサンダーも鏡を使って自分の観察を始めました。鏡のお陰で現状を把握することはできました。しかし、習慣の強い力と感覚的評価が当てにならないために、鏡でわかったことは、自分がやろうとしていることと、実際に自分がやっていることが一致していないということだったのです。
鏡を眼の前にすると「強い刺激になるから」というのはどいうことでしょうか。よくあるのは、鏡に写っている自分に意識を持っていかれてしまうことです。そんなに大げさでなくても、少なくとも鏡に写っている自分に視線がいき、視野が狭くなりやすくなります。直接起こることとしては、不必要に(鏡に向かって)前傾してしまったり、自分自身の中で起こっていることに気が付かないとか、特定の箇所に意識が向いてしまい、全体が把握できなくなるとか、いろいろ望ましくないことが起こる可能性があります。
アレクサンダー教師は、レッスン生が自分自身で何をやっているのかいないのか観察してほしいのですが、鏡による目からの情報だけではなくて、自分自分の身体からの情報にも目を向けてほしいと思っています。
もちろん、半身不随の身体を持っている人は目からの情報がないとできないこともあります。しかし、車の運転と同じで、感覚を身につけると直接見なくてもできるようになるらしいので、最終目的は鏡を見なくてもできることなのかもしれません。
鏡から得られる情報も間違いなくあるので、必要以上に意識することなく依存しない程度に利用することです。
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