日常生活の呼吸を意識的にしてみようとしました。でも、正直心のなかでは(そんなことしていたら、頭の中が呼吸のことでいっぱいになって、何も手につかないんじゃないか)と思っていました。でもそれは実際にやろうとしないでいる自分のただの思い込みでした。
思い切って、一週間を犠牲にするつもりで「息を吸っているか、息を吐いているか」と意識してみました。最初は周りで起こっていることの上に「息を吸っているか、息を吐いているか」が被さってきて(やっぱりできないよ)と思っていました。けれどもしばらく続けているうちに、呼吸を意識しながら周りとのやりとりもでき、日常生活もできるようになっていきました。
やってみたら思ってたのと違ったわけですが、続けているうちにまた別の何かが違うと思うようになってきました。それは、「息を吸っているか、息を吐いているか」と意識すると同時に、(こんな吸い方でいいのか、こんな吐き方でいいのか、速すぎないか、遅すぎないか、変なところが動いているような気がする、お腹はこの動かし方でいいのか、肋骨はこの動かし方でいいのか、口から吸ってもいいのか)などなど、だんだん頭の中が騒がしくなってきたからです。これは、何が正しいのかわからないのに正しいことをやろうとしている状態です。
経験からおわかりのことと思いますが、呼吸はさまざまな要因、例えば心理的、情緒的、精神的な状況、身体的なこと、筋肉等々に関わる事柄から、干渉されたり止まったりします。こうした妨げの結果私達は息を詰めます。息を詰めて、実際呼吸を止めてしまうんです。
キャリントン先生のあふれる言葉P52
これだと思いました。呼吸を止めているわけではなかったのですが、明らかに干渉していました。頭の中が騒がしくなるたびに、息を大きく吸ってみたり、お腹を動かしてみたり、自然な呼吸を妨げているのは確実でした。
そこで新しく気がついたのが、首と同じだということでした。それこそ、「心理的、情緒的、精神的な状況、身体的なこと、筋肉等々に関わる事柄から」、私達は首を固め縮め、頭と首と背中の関係性を悪くしてしまうということです。ならば、アレクサンダー・テクニークを学んできたものとして自分の首のことを考えるように(長く広く楽で自由でいること、固めたり縮めたりしそうな瞬間に気がついたらそれをやめること)呼吸のことを考えたらいいのではないか(楽で自由でいること、息を詰めたり呼吸を止めたりしそうなことが起こるのに気がついたらそれをやめること)、ということです。
呼吸を止めるということが全てやめるべきことなのかが、今の私にはわからないことです。とりあえず、呼吸を妨げるものに気がつくように意識的でいようと思います。
ダンスのレッスンを受けていると、ときどき耳にすると思います。「呼吸している?」と。ダンスの先生は何かしらの意図をもってこの声掛けをされていると思います。アレクサンダー・テクニークの視点から言うならば、これは、呼吸を邪魔するようなことをしていないか、息を詰めていないか、という意味です。そうして、ダンスの先生が声掛けをしたその時だけ「うん、息してる」と確認するのではありません。ダンスをしている間、ずっと息を詰めないで動いていられるか、ということなのです。(アレクサンダー・テクニーク的には、朝起きてから寝るまでです。)
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