以下はNotebookLMで作成した、架空の二人が「手段と結果」について「議論」する音声解説についてです。太字(A)と斜字(B)の立場の違いは前回と同じです。後の解説も、太字(A)と斜字(B)で合わせてあります。
Aの発言:
だからこそ根本的な解決に至った真の学習とかスキルの向上というのは結局この手段の質を高めることからしか始まらないと。まあ回り道のように聞こえるかもしれませんけれどもプロセスそのものに注意を向けることこそが結局は最も確かで持続可能な良い結果をもたらす唯一の道だとそう考えています。結果というのは良い手段を選んで実行したその先に自然についてくるものというようなそういう見方ですね。Bの発言:
NotebookLM
プロセスの重要性はもちろん論を待たないわけですけれども、そもそも何を目指すのかという目的つまり 達成したい結果がある程度明確になっていないと、じゃあどのようなプロセス、どのような手段を選んで改善していくべきなのか、その方向性自体がちょっと定まらなくなってしまうんじゃないでしょうか 。結果への意識がなければ手段の探求というのもどこか漠然としたものになってしまう 。そういう恐れもあるかなと。
資料に出てくる例えば串打ちの仕事についてちょっと考えてみましょうか。そこでは単に 、丁寧に行うというだけじゃなくって、10分で10本仕上げるといったような具体的なスピードですとか、生産性、つまり明確な結果が求められる場面が描かれていますよね。手段の質にこうこだわりすぎるあまり、こうした現実的な要求に答えられなくなってしまうのではちょっと本末転倒になりかねないかなと。
もちろんだからと言って手段をおろそかにして良いというわけでは決してないんですけれどもアレクサンダーテクニックで重視される例えば一旦立ち止まって考えるあるいは抑性と方向付けといったアプローチというのは時にはその内省に時間がかかってしまって素早い行動が求められるような状況では対応の遅れにつながる 。そういう可能性も考えられるんじゃないかと。
結果を意識すること自体がですね、より良い手段を見つけ出すためのある種の強い同期付けになったり、あるいは具体的な改善のための思考錯誤を促したりするそういう側面もあるはずだと思うんです。
手段と結果というのはどちらか一方が絶対的に正しいというよりはむしろ互いに影響し合って保護ようなそういう関係にあるのではないかと、そのバランスをどう取るかというところが重要だと考えます。
Aの発言について
「手段の質を高めることからしか始まらない」とか、「プロセスそのものに注意を向けることこそが結局は最も確かで持続可能な良い結果をもたらす唯一の道」は言い過ぎです。唯一の道かどうかはわかりません。他の選択肢が排除されてしまうことの恐ろしさがあります。結果へ向かうことを排除するのではなくて、無意識に自動的に結果へ突き進んでしまうことを避けたいだけです。
Bの発言について
手段ばかりがあって結果への方向性がなくなってしまっていることに対して反論しているようですが、アレクサンダー・テクニークでの手段というのは、ある達成したい結果に対してそれに向かって段階を追って積み上げていくものです。まず、前提が違います。
確かに手段ばかりに意識がいってしまい、スピードが求められる場面でその要求に応えられないのは本末転倒かもしれません。アレクサンダー教師はそれを望んでいるわけではありません。この発言をしている人は、手段の質を高めていく過程があることをわかっていません。手段に質を求める場合、最初は時間がかかります。それは否めません。しかしそこだけを論点にすするからおかしなことになるのです。時間がかかるのは、その手段を身につけるための途中経過です。一つの方法としては、仕事ではない時間に同じことに取り組むことができます。日常生活にも同じような動作はあるからです。そこで自分の使い方の質を良くしていき、身についてきたことから仕事にもとりいれていくというやりかたです。個人差はありますが、時間がかかるのは最初だけで、身についてくると速くできるようになっていきます。そこが本来の目的です。アレクサンダー・テクニークでは日常生活の動作を題材にしてレッスンするのはそういうところに意味があります。
そうして、時間がかかるのは最初だけ(これがどのくらいの期間かは個人差があります)です。それは、ピアノで言うところの譜面を読むことであったり、歌で言うところの歌詞を読み込むことであったり、役者が動きを研究するようなものです。最初から演奏するスピードで譜面を読める人が、歌詞を読みこなせる人が、舞台で動き回れる人が、どのくらいいるのでしょうか。そうして回数をこなして身についてくると、違和感のないスピードでできるようになります。もちろん、最初から初見で演奏できてしまう人もいますが、かなり経験を積んだ人です。アレクサンダー・テクニークでも同じことです。経験が少ないときに素早い行動が求められる状況は、それも経験の一つでしょう。今の自分にどのくらいのことができるか、やってみるしかありません。一方で、経験が少ないときは、時間がかかるということに対して周りの人の理解も必要かもしれません。
時間がかかると主張している「一旦立ち止まって考えるあるいは抑性と方向付けといったアプローチ」は、慣れてくると一つ前の動きの中に含まれるようになります。そうして、実際は動きながら同時進行で考えることができるようになります。これを、アレクサンダーの学校の先生は、「通奏低音を聴きながら演奏するオーケストラの団員」に例えていました。通奏低音を聴くということは自分の身体や心をスキャニングして使い方を観察することの例えです。演奏するというのは今の自分の活動そのものの例えです。
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