レッスンでは、チェアワークとして椅子から立ったり座ったりしてもらいます。このとき、アレクサンダー教師はレッスン生に「立つ(座る)と考えない」で「立とうと(すわろうと)しない」でと声をかけます。
しかし、この考え方がまだ理解できていないうちは、もともと自分が日常的に行っている「立つ」「座る」が理想的なもの(自分のやり方が間違っているということに気がついていないためそう思いやすい『感覚的評価の不確かさ』)で、良い自分の使い方であった場合、「立つ(座る)と考えない」で「立とうと(すわろうと)しない」でいると、動けないではないか(アレクサンダー教師の指示どうりにすると動けないから。それは今までの立つ座るが理想的なものでなかったことを意味しています。本当に理想的な立つ座るができるひとであれば、本来アレクサンダー教師の指示どうりにすると動けます)、という疑問がレッスン生に生じます。
実は、アレクサンダー教師がレッスン生に「立つ(座る)と考えない」で「立とうと(すわろうと)しない」でと声をかけるのは、習慣として身についているその動きの中に間違った自分の使い方が含まれているのが前提だからです。それは、首を固めている・頭を後ろへ下へ引き下げている・背中が短く狭い・頭の中がザワザワしている・全身が重力に負けて下に向かう・関節が短く狭くなる・筋肉に不必要な緊張がある・意識が自分の中に入ってしまう、などなど。これらのどれか一つ以上含まれているという前提です。
では、「立つ(座る)と考えない」で「立とうと(すわろうと)しない」でその代わりに何を考えるのか。考えることは、首が自由で・頭が前へ上へ・背中が長く広く・頭の中が静か・全身が重力に対して上に向かう・関節が広く長くなる・筋肉が必要最小限の力で働いている・自分の周りのものが見えている聞こえている、などなど。これらを自分の中に持ちながら椅子の前で足首・膝・股関節を曲げたり伸ばしたりした結果がアレクサンダー教師のいうところの理想的な「立ち」「座り」になります。
つまり、仮にもともと理想的な「立ち」「座り」を持っていた人が「立つ(座る)と考えない」で「立とうと(すわろうと)しない」ようにしたとしても、その後、アレクサンダー教師の言葉や手の働きによって、首が自由で・頭が前へ上へ・背中が長く広く・頭の中が静か・全身が重力に対して上に向かう・関節が広く長くなる・筋肉が必要最小限の力で働いている・自分の周りのものが見えている聞こえている、という方向に自分をもっていくことになります。その上で、椅子の前で足首・膝・股関節を曲げたり伸ばしたりした結果、本当に理想的な「立ち」「座り」を持っていた人であれば、同じ動きになるはずです。
なので、心配しないで「立つ(座る)と考えない」で「立とうと(すわろうと)しない」でその後はアレクサンダー教師に任せて問題ないのです。
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