自分の感覚はどのくらい信用できるものなのでしょうか。普段意識して使っていないところの感覚は、よく使って研ぎ澄まされた人の感覚よりも鈍いです。そうして、ある程度の筋感覚を持っている人の上には、更に鋭い感覚を持っている人がいるものです。つまり、感覚的評価の確かさというのは相対的なものだということです。
自分が出している音が合っているのか外れているのかがわからなかった人が、自分の出している音が外れているかどうかわかるようになってきたとします。そうして、ある程度音感がつかめてきてわかるようになってきたとしても、もっと繊細に鋭い音感を持っている人からすると、「まだまだだな」と思われるに違いありません。
仕事で包丁を使うときは様々なことが要求されます。まだまだな私は、今目の前の材料がうまくきれない原因が、材料の素材にあるのか、包丁のメンテナンスにあるのか、私の経験のなさにあるのか、わかりません。経験豊かな先輩は、自分で切ってみて、何が原因かわかると思います。経験からくる研ぎ澄まされた感覚です。そうして、その感覚は、経験を積めば積むほど更に研ぎ澄まされていき、職人レベルになると終わりがありません。
アレクサンダー・テクニークのレッスンは、「感覚的評価は当てにならない」ところから始まります。それなら、アレクサンダー教師の感覚的評価も当てにならないではないか、ということが頭をよぎります。アレクサンダー教師のガイドも当てにならないということです。そうです。アレクサンダー教師の感覚的評価も当てになりません。では、なぜアレクサンダー教師はレッスン生をガイドすることができるのか。それは、感覚的評価は相対的なものだからです。個人差はありますが、教師資格をもっていることが、レッスン生と比較してより確かな感覚的評価をもっているということになります。しかし、感覚的評価は相対的なものであることに変わりはありません。もっと経験を積んだ先生からすると、私の感覚的評価はまだまだです。教師であることはこの先も続くことを考えると、職人と同じで終わりがありません。
そうして、感覚的評価が確かなものになっていく過程は不必要な習慣や癖を取り除いていく過程と同時進行です。
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