学校の先生曰く、アレクサンダー教師は「ばんそうしゃ」なのだそうです。「伴走者」きちんとその意味を把握しているわけではないのですが、アレクサンダー教師との共通点を探してみます。
「伴走者」と一緒に走るランナーは、これから走る道の情報をを自分で十分に取り込むことができない(障害がある)ために、走るときに障害となるものを自分一人では判断できない人です。そのまま自分ひとりで走ると、危ないし本人も怖い思いをします。
「伴走者」が「こっちだよ」と先を行くということは、危ないことや障害物、周りの情報を「伴走者」が判断してその結果をランナーに伝えていることになります。先に行くことは、本来の役目ではありません。「伴走者」はランナーが自分で判断できるように周りの状況を伝えて伴に走るのが役目。ランナーは主体的に走るのです。また、「伴走者」が後からついていっては意味がありません。そして、伴走者とランナーは輪にした一本のロープを握ります。このロープが二人の間の情報伝達の一つになるようです。
アレクサンダー教師が手を置くレッスン生は、必要な筋感覚が十分に研ぎ澄まされていないために、動きを邪魔するもの(不要な緊張)やそれを引き起こすきっかけ(刺激)を自分で判断できない人です。そのまま自分ひとりで動くと、無意識で自動的に不要な緊張を伴いながら動くことになります。レッスン生はそのことに気づいていません。
アレクサンダー教師もレッスン生より先にいくことはありません。アレクサンダー教師が先にいってしまってはレッスン生の今の状態をとらえることができないのではないかなと思います。レッスン生にとって余計な刺激になる可能性もあります。アレクサンダー教師はリアルタイムで今起こっていることをレッスン生に伝える必要があるのです。レッスン生が主体的に動くのです。アレクサンダー教師が後からついていくのも意味がありません。アレクサンダー教師がレッスン生に置く手は、伴走者とランナーがにぎるロープと位置づけは近いようにみえます。
ということは、共通点は、主体的に動くのはランナー・レッスン生であり、伴走者もアレクサンダー教師も先に行かず・後からついていかない、ロープ・手が情報伝達の一つの手段である、ということかな。新しくわかることがあれば書き直していきます。
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