指示やアドバイスを一旦自分の身体に合うように翻訳し解釈し直す必要があるように、見て聞いて「これを真似しよう」と思ったら、やはりそれも自分の身体に落とし込むためには翻訳し解釈し直す必要があります。
そうして、アレクサンダー・テクニークの視点からすると、真似をすることが難しいのは、本当の意味で取り込む必要があることは見えてこないことが多いということです。(アレクサンダー教師であれば、経験に応じて見えるかもしれません。)
頭と首と背中の関係を考えてみます。首が楽で伸びていて頭が前へ上へ背中が長く広い人を見て、「それを真似したい」と思った人はどうするのでしょうか。しかし、それが特定の格好である姿勢ではなく常に動的な位置関係にあること、力でもってその位置関係を実現するのではなくて不必要な緊張や妨げとなるものを除くことで実現させていること、は見えてこないものです。
重力に対して上に向かうupの力も、自分の力で頑張って上に向かうのではなく、もともと自分の身体に備わっているものだということも、自分の使い方が良い人を見て真似しようとしてもわからないと思います。
アレクサンダー・テクニークでは不必要な緊張や余計なことをしないように抑制(インヒビション/inhibition)しますが、やめた不必要な緊張は見えません。不必要なことは何もしない(ノンドゥーイング/non-doing)でいるときも余計なことはしないでいるわけですが、余計なことをしないでいることも見えません。方向づけ(ダイレクション/direction)も自分の身体をその方向へ力で持っていくものではなく、考えることによって「思考ー運動中枢」に働きかけていることもおそらく見えません。
真似をしようと思って見ている人には、やっていることが見えても、やらないようにしていることは見えないのです。そこが真似をするうえで難しいところです。
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