日常生活では動きの複合体がなんとなくつながっている人がほとんどです。それは文字でいうと行書でもなんでもなくて、ただグチャッと書いているに過ぎません。
習字を習う時、最初は行書ではなくて楷書です。一画描き終える度に筆を紙から離し、また筆を紙に下ろします。一画毎に始めと終わりがしっかりあります。行書は習ったことがないので想像ですが、楷書がしっかり身についた人が書くと美しいと思います。
人間の動作を考えてみると、普段あまり考えて動くことはないかもしれませんが、大抵の動作は複数の動きの複合体です。もちろん、同時に複数の動きをすることもあるし、刺激が次々とやってきて動作が追加されていくこともあります。日常でそれはなんとなくつながっていて、前の動きの最後と次の動きの最初もなんとなくつながっています。次々とやってくるものをこなしていかなければいけない現代人であればなおさら、目的に向かってend-gaining(結果至上主義)になっているとそれが加速します。アレクサンダー・テクニークでmeans-whereby(手段)を考える時、それらを一つ一つ分解して丁寧に見直していきます。
階段を登るのであれば例えば、片脚を上げる・上げた脚を上の段にのせる・体重を移動する・両足を揃える(下にあった脚を上の段にのせる)、これを両足やってみます。階段を降りるときもやってみます。実際は階段を登り降りしながら掃除をするとか、カバンからsuicaを出し入れするとかします。隣の人とお話をしているかもしれません。
歌なら、身体全体の使い方・声をだす・母音をつくる・子音をつくる・歌詞読み・音取り・顎の使い方・舌の使い方などなどもっとたくさんありますがきりがないので大雑把にこれくらいにしておきます。自分一人とは限りません。一緒に演奏している人もいます。聞いている人もいます。
それらを見直した後で一連の動作に戻すときには、それぞれが互いに邪魔をしてはいけません。ある意味アイソレーションです。けれどもお互いに影響し合っています。だからこそ邪魔をしないようにするのです。そうして、一連の動作に戻したとたんにグチャッと繋がってしまわないように、自分の使い方を考えていきます。
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