フースラーのレッスンのの時のこと。喉をしめないで息だか声だかを出すことを試みていて、先生が「そうそう」って言いながらポンっとピアノの鍵盤を叩いたとたんに「やっぱり反応しちゃうんだ」と言われました。ピアノの音がなったとたんに喉がキュってしまったらしいのです。私には全くそのつもりがなくて、ぜんぜんわかりませんでした。
これこそが長く歌ってきたからこそ習慣・癖として身についてしまった身体の反応です。習慣・癖とは、刺激に対して無意識で自動的に身体が反応してしまうことです。ここでの刺激は「ピアノの音」です。反応は「喉をしめること」です。無意識なので、耳から音が入ってきただけで喉がしまります。頭の中、脳をスルーして喉がしまります。なので、「喉をしめない」と考えても関係なく喉はしまります。自動的なので、喉をしめようと思っているわけでもありません。自分の意思とは関係なく喉はしまります。フースラーの先生は耳で判断できるので、今の瞬間に喉がしまったことがわかるのです。そして、喉をしめないことがどういうものかを教えてくれるわけですが、そんなにすぐにはわかりません。
アレクサンダー教師として喉がしまっているのかいないのかわかりたいところですが、私の身体がわかっていないのだから教師としてもわかりようがありません。
アレクサンダー教師としてここでやることは、ピアノの音を聞いても喉をしめたくないわけですから、「ピアノの音」という刺激に対して「喉をしめる」という反応を起こさないようにすることです。自分の中にある「ピアノの音」と「喉をしめる」の癒着を剥がします。ピアノの音が鳴る前は喉がしまっていなかったわけですから、ピアノの音が鳴っても自分を変えない必要があります。non-doing(《不必要なことは》何もしない)でいることです。それには、ピアノの音がなる前もnon-doing(《不必要なことは》何もしない)でいる必要があります。そして、無意識でいると自動的に変わってしまうので、意識的でいる必要があります。これがアレクサンダー・テクニークのレッスンでやることです。
しかし、私はピアノの音が鳴る前にnon-doing(《不必要なことは》何もしない)でいることがまだできていません。フースラーの先生に「そうそう」って言ってもらわないとまだわからないのです。なので、まずはそこからです。
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